数十分後、フェイト・ウェイズにある梨来のマンション。長く続く廊下を歩く足音が空
しく響いている。その一番奥に、梨来の自宅はあった。
　少し豪華な茶色のドア。本当ならこのドアを開ければ出迎えてくれる人がいた。そう、
いたのだ。しかし、その人はもういない。きっといつも通りの静けさが支配しているだろ
うと梨来は自宅のドアを開いた。
　しかしそこには、腕を組んで仁王立ちしている女性の姿。
「遅いわよ梨来。待ちくたびれちゃったじゃない」
「俺は待っててくれとは一言も言ってないけど。っていうか来てくれとは言った覚えはな
いんですが。・・・で、何の用？」
　梨来に向かって馴れ馴れしく話しかけるこの女性。梨来も何時もとは違う口調で返事を
返す。ということはこの女性は梨来の新しい彼女なのだろうか。
「ひっどぉい。これでも私はあんたの姉なんだからね。用がなくちゃ来ちゃいけないわけ？
第一、私たちの家の近くにマンション借りたあんたが悪いんだからね」
　梨来の家に上がり込んでいたこの女性は、フェイト・ウェイズの隣街、ギルシックに住
んでいる実の姉の彩であった。彩は梨来より五つも年上で、今は一児の母である。
「りくぅ────────っ」
　リビングの方から可愛い声と共に姿を現した幼い少女。その横には梨来の愛犬・ルピュ
がいる。この少女こそ、梨来の溺愛する姪っ子の海咲である。つまり、彩の娘である。
「ルピュただいま。海咲っ元気だったか？おっ重たくなったな」
　梨来は海咲を抱き上げてリビングの方へと足を向ける。その横にはルピュがおとなしく
ついて来ている。
「で、姉貴、用事は？」
「海咲を預かって欲しいの」
「えっ？俺が？あ痛っっ」
　彩の思いがけない言動に梨来は思わず振り返った。そして思いっきり敷居に小指をぶつ
けてしまった。
「そう。梨来がよ。明日から旅行に行くのよ。三泊四日北海道旅行。北海道まではもっと
時間がかかるから実質は三週間程預かって欲しいんだけどね」
「北海道？だったら海咲も連れてってやれよ」
「駄目なの。本来の目的は子作り旅行なんだから。海咲は連れて行けません」
「何が子作り旅行だよ。本当は凌さんと喧嘩したんだろ。だから仲直りの旅行じゃないの
か？第一俺だって忙しいんだ。最近もほとんど休みがなかったんだ。預けたかったらお袋
にでも頼めばいいだろ」
「母さんはマトリックスにいるのよ。遠すぎるわよ」
「遠くたって可愛い孫の面倒ぐらい見てくれるだろ。俺なんかよりましだ」
「いいじゃない。同じ星に住んでいる弟に頼んだって。我が弟君が大切になさっている海
咲をレンタルしてあげようとしているのよ。それともあんたの大嫌いな父さんに預けても
いいの？」
　彩の口から父親の事が出て来た瞬間、梨来の顔が一瞬曇った。が、可愛い海咲の顔を見
て気持ちを落ち着かせた。
「子供をレンタルだなんてビデオと一緒にすんなよ。なぁ海咲」
「なぁー」
　海咲は梨来に愛くるしい笑顔を見せる。こんな笑顔を見せられると「預かるよ」と言葉
が零れてきそうになる。
「二七にもなって彼女のいない梨来ちゃんにはその可愛い彼女がお似合いよ。・・・あっ
もうこんな時間。下で凌くんが待ってるからもう行くわ。海咲、梨来の言う事をちゃんと
聞くのよ。じゃあね」
「はぁい、ママ。いってらっしゃい！！」
「おっおいっ姉貴！本気で置いていくのかよ」
　梨来が止めるまでもなく、海咲に手を振って彩は旅行に出かけた。日常においても使い
やすい男である。
「・・・ったくう。この借りは絶対返してもらうぜ」
「ぜぇ！」
「さあ海咲・・・・どうした？ルピュ」
　梨来の足元で何度か甘えるルピュに目が行く。ただ単に遊んで欲しいようではなく、全
く別の要求である。
「あぁ。ごめんごめん。腹減ったんだな。よし、ちょっと待ってろ」
　海咲をソファの上に座らせ、台所にあるルピュの餌を取りに行く。その後をルピュがつ
いて来る。
「ほらっ」
　目の前に出されたドッグフードを食べ始めるルピュ。それを見ていた梨来のお腹がぎゅ
るると鳴り、自分もお腹が空いている事に気付かされたのである。
「俺も腹減ったな。海咲、お腹空いてるか？」
「うんっ」
「じゃあ外に食べに行くか」
「わぁーい。ハンバーグがいいぃ」
「よし、じゃあ行くぞ。ルピュ、お留守番頼んだぞ」
　ルピュの頭を撫でて、ソファに投げ置いてあったバイクの鍵を手にした。そして部屋の
戸締りを確認していると海咲が何処からか小さなヘルメットを持って来た。梨来が買った
海咲専用のヘルメットだ。
「海咲、重いだろう」
　海咲が持っていたヘルメットを梨来が持ってやる。そして二人は一階の駐輪場へと向か
った。
「海咲、こっちおいで」
　梨来は海咲に先程のヘルメットを着けてやり、自分もバイクに置いてあったヘルメット
を着けた。そして自分の座った前の所に海咲を乗せ、自分と海咲をベルトで固定した。そ
れが海咲を乗せる時の梨来のルールである。
「それじゃあ、出発進行！！」
「しんこう！！」
　梨来は少し静かな街を抜けてネオンが点灯している繁華街までバイクを走らせる。数分
後、梨来と海咲は一軒のファミレスに到着したのである。
「りくぅ」
「ん？あぁ待ってろ」
　自分と繋いであったベルトを外し、ヘルメットも取ってやった。すると自分からバイク
を降り、ニコニコ嬉しそうに梨来の周りを駆けている。
「おや？お前に子供がいたなんて知らなかったな。隠し子か？」
　後ろから聞きなれた声が聞こえて来た。それもプライベートでは一番会いたくない人物。
知らぬ振りして無視するのも良かったが、どうせ相手はあいつなんだろうと梨来は振り返
った。・・・やっぱりあいつだ。何時も何時も梨来に面倒ばかりかけている人物、よはん
である。
「あっわんこさんだ」
「海咲、挨拶は」
「こんばんは」
「こんばんは。可愛い娘だな。何時こんな子作ったんだ？愛しき妻の残した財産か？」
「何を言う。誰かと作ったんじゃないし、成流との子でもない」
「じゃあ何だ？コウノトリが連れて来たのか？それとも誘拐して来たのか？」
「おぉいっ。俺がいつ誘拐した。ましてや宇宙警察官の肩書きを持っているこの俺が。こ
の子は俺の姉の子供だ。預かってくれって頼まれたんだよ」
「お前は日常でも使いパシリか？」
「ねぇりくぅ」
　海咲は立ち話を始めた梨来のズボンを引っ張る。
「ゴメンな海咲。よはん、これから食事するんだろ。よかったら一緒にどうだ？」
「もちろん梨来のおごりだろうな」
「馬鹿言うなよ」
「上司に向かって馬鹿とは何だ」
「今まで上司と思った事はこれっぽっちもない。年老いた子供だと思ってたけど」
　長年付き合ってきた二人らしい会話をしながら中へと入って行った。
「海咲、何がいい？さっきハンバーグがいいって言ったよな」
　奥の方へ案内された三人は、手渡されたメニューを開き何を食べようかと決めていた。
「りくぅ。海咲これがいい」
「お子様ハンバーグセット？よしわかった。で、よはんは？」
「当店オススメマンドラゴラの厚切りステーキ、ライス付き」
　メニューの間に挟まっていたオススメ専用メニューに大きくマンドラゴラの厚切りステー
キ、ライス付きと書かれている。またそれが当店一のオススメ、地球産で毎日新鮮なまま
送られて来ると書かれていてはよはんがオーダーしない訳がない。
「マッマンドラゴラ？」
　それを聞いた梨来が素っ頓狂な声を上げると、よはんは何か企んでいるような笑みを見
せた。
「・・・あっ！もしかしてこの前の仕返し！」
　覚えているだろうか。以前よはんがマンドラゴラのばたぁ炒めを作った時の事を。梨来
が食べずに逃げた事をよはんはまだ根に持っていたのだ。（ＧＡＴＥ�氈ｫ第一話参照）
「本当はお前にも食べさせてやりたいが、お前は匂いだけでも嫌な顔するからな」
「当たり前だろ。そんな臭いきついまずいもん食ったら誰だって嫌な顔するに決まってる
じゃないか。見ただろ、SpeaDのメンバーがそんな顔をしたのを。第一、よはんの味付け
もおかしいんだ」
「何を言う。あれが正当な料理の仕方だ。昔はみんなに評判だったんだからな」
「嘘だろ」
「本当だ」
　物凄く嫌な顔をする梨来に対し、満面の笑みを見せるよはん。結局梨来の思いも空しく、
よはんはご希望通りのメニューをオーダーした。
「ご注文の方は以上でよろしいでしょうか」
「はい」
　注文したものが揃ったところで三人は会話をしながら食事の時間を済ませていった。梨
来は終始よはんに突っ込んでいただけだったが、何時もとは違う時間に少し気分が楽にな
っていた。
「ここは俺が払うよ」
　結局よはんの分も梨来が払い、その場で、よはんとは別れて行き来た道を海咲を乗せ再
び走る。マンションに到着する頃にはもう一〇時を過ぎており、海咲もうつらうつらし始
めていた。
「海咲、着いたぞ」
　ベルトとヘルメットを外してやったが、バイクから降りる気配もなく返事も返ってこな
い。少しだけ体を揺すってやると機嫌の悪そうな声が返ってきた。
「りくぅ。だっこぉ」
　仕方なく、梨来が抱き上げ、最上階にある梨来の自宅まで戻って行った。玄関を入ると
梨来が帰ってきた事に気が付いたルピュが走って出迎えに来る。それに何時ものように頭
を撫で、答えてやる。
「ルピュただいま」
　リビングの電気を点け、自分と海咲のヘルメットをソファに置くと、先程彩が置いてい
った海咲の荷物を寝室に運んだ。そして、海咲をベッドに寝かせると、その中からパジャ
マを取り出し、着替えさせてやった。
「それじゃ、海咲おやすみな」
　すっかり夢の中へと行ってしまった海咲にそっと布団を掛けてやると寝室の電気を消し、
梨来は部屋から出た。
「さて、仕事でも片付けるか」
　バッグから何やら大量な書類を取り出すと、パソコンに向かって仕事を始めたのである。

「♪おはようみんなで元気に〜」
　朝、海咲は自宅にいる時と変わらなく、早く起き、ルピュと一緒に早朝のお子様番組を
見ていた。一方梨来は、昨日も結構遅くまで、仕事をしていた為にまだ夢の中である。そ
して今日は久し振りの休暇という事もあって、海咲が起こしに来るまでは寝ているつもり
であった。しかしそんな事はお構いなしに梨来の携帯が着信を知らせていた。
「・・・はい。・・・もしもし。あぁ祐か。珍しいな祐が電話してくるなんて。しかもこ
んな早くに。・・・で、何の用だ？」
　梨来は体を起こし、枕元に置いてある時計に目をやった。時計の針は六時四五分を指し
ていた。
「えっ？出動要請？せっかくの休みなのにか？あぁ・・・本部からの命令だって？・・・
わかった、すぐ行く」
　携帯を切るとベッドから起き上がり、リビングでテレビを見ていた海咲を呼んだ。
「海咲─っ」
「なあにぃ？」
「海咲、今仕事が入ったんだ。でな、これからすぐ行かないといけないんだ。多分家には
戻って来ないから海咲も一緒に連れてくな。ちゃんとおりこうさんに出来るよな」
「うんっ」
「じゃあ服も自分で着替えてごらん」
　海咲のカバンから着替えを出すと、梨来も服を着替える。黒の皮パンに第三ボタンまで
開けられた淡い茶のシャツ。そのちらりと見える胸に光る、黒皮の紐に通されたリングの
ペンダントヘッド。そこにはTo　N　From　Rと刻まれている。これはあの時交換した成
流の形見である。
「りくぅやってぇ」
　梨来のズボンを引っ張った海咲の手には、ライトブルーのボンボンのついたゴムとくし
が握られていた。そのゴムとくしを海咲からもらうと、ベッドに座り自分の膝に海咲を座
らせた。そして肩口まである海咲の黒く光る髪を二つに分けて縛った。
「終了。歯ぁ磨いておいで」
　海咲が部屋を出て行くのを確認すると、海咲のカバンに自分の着替えを少し詰め込んで
リビングへと出た。そこには一人でテレビを見ていたルピュが愛らしい目で梨来を見つめ
た。
「ルピュ、今回も長い仕事になりそうだ。もしかすると姉貴たちよりも長くなるな。メモ
を残しておくから姉貴が来たら教えてやってくれよ。お前の事はちゃんとゴンさんに頼ん
でおくからおとなしく留守番しておくんだぞ」
　梨来の言葉を理解しているような仕草を見せると、すっと頭を出した。それを見てルピ
ュの頭を撫でてやり、自分も洗面所に向かった。
　洗面所では小さな踏み台に立って一生懸命歯を磨いていた海咲がいた。その後ろに立っ
て梨来も歯を磨く。ふと今頃こんな感じで自分も父親をしていたのかもと考えてしまいた
くなる程穏やかな雰囲気である。
　しかし何故、梨来がここまで海咲を溺愛するのか。それにはちゃんとした理由があった。
それは成流が亡くなった同じ日に海咲が誕生したからである。つまり成流が亡くなった五
月一四日が海咲の誕生日なのだ。それを聞いた梨来は間違いなく成流の生まれ変わりだと
思い、両親よりも可愛がるようになったのである。
　準備を済ませた梨来は、何時ものカバンにヘルメット、そして海咲の荷物が詰まったカ
バンを持ち、バイクの鍵を持って、玄関に向かった。
「海咲─────っ」
「まってぇ」
　何時もより賑やかな朝が始まったようである。